|
[ ←back ]
■■■ 恋に始まり愛は果てとも連戦したわけでも、一日中訓練をしていたわけでもないのに、妙に疲れた。肩と腕が強ばり、痛みと疲労を訴えている。 「シュウも人使いが荒いぜ」 重い体を引きずって、フリックは自室の前に戻ってきていた。書類を出しに行ったところ、軍師にとっ捕まって散々手伝わされたのだ。 読み書きくらいはできても、書類仕事はてんで駄目だという人間は、部隊長クラスにもわんさかいる。 だがフリックが生まれ育った戦士の村では、戦いの技術だけでなく、外の世界での処世術や学問も一通り教わる。解放軍では副リーダーをやっていたし、ビクトールと行動していた三年間など、書き物の類いはすべてフリックの分担だった。 なにせあの男、本気でやればできないことはないはずなのだが、まず面倒くさがるわ大雑把だわで、催促も確認もひたすら手間なのだ。結局、フリックが一人でやった方が早いということになる。 不本意にも培った書類仕事の腕に目をつけられて、度々シュウを手伝わされているのだった。 彼ら文官も日々山のような書類を処理していると知っているからこそ、フリックの手も借りたい状況となれば断り切れない。こういうところが押しに弱いと言われるゆえんだろう。 気がつけば夜も更けていた。 酒場ではまだ宵っ張りの連中が管を巻いているだろうが、廊下の人通りはだいぶ少なくなっている。もう少しすれば明かりも落とされるだろう。 深く息を吐いて、扉に手をかける。鍵を取り出すまでもない。部屋の中には人の気配があるのだから。 ふっと、重石が乗っているようだった体が軽くなる。 我ながら現金なものだと苦笑しながら、フリックは扉を開けた。 暗く冷たい空気はベッドの下に押しやられ、穏やかな明かりが出迎えてくれる。ふわりと漂う匂いに、胸が熱くなった。 やっと恋人と呼ぶことが叶った相手は、想像の通り恋愛ごとには不慣れだ。育ちもいいから、初めのうちは主のいない部屋に入ることすら躊躇していた。合鍵を渡し、来訪を喜んで、やっとフリックの部屋で過ごすことを当たり前だと思ってくれるようになったのだ。 さて今日は、自然を装って出迎えてくれるか、あるいは素知らぬ顔で本を読むふりでもしているか。 「ティル、いてくれたのか……、っと」 弾んだ声を、すぐにフリックは落とすことになった。 ランプが暖かく照らす部屋の中。机の上に栓の開いた酒が鎮座している。中身は半分ほど減っているように見えた。ラベルを確認するまでもなく、ビクトールが好んで飲むような強い酒だとわかる。 グラスは二つ。そのうち一つには、飲みかけの酒が少し残っている。 そして目当ての人物は、机の上に突っ伏していた。微かな呼吸音とともに、細い背中がゆっくりと上下している。 「……寝てるのか?」 穏やかな寝息を邪魔しないように、足音を殺して歩み寄る。 フリックを待っていたのだろう。ふたりで酒を飲むつもりだったのか。 ただでさえ緩んでいた顔が、更に笑み崩れたのがわかった。きっと、だらしない顔をしている。 最近、ティルは折に触れて酒を持ち込む。弱くはないが、好んで呑むわけでもないのに。たまに強い酒を紛れ込ませては、「酔った」と言いながらこてんと寄りかかってくるのだ。 気持ちを素直に出すのが苦手なティルなりの甘えだと、天恵のごとく気づいたのはついこの間の話だ。正直雷が落ちたような衝撃を受けた。翌日は仕事が手に付かなかったことを覚えている。 今日も、そのつもりだったのだろうか。 先にひとりで開けていたことを考えれば、酔った素振りでもっと……などと、都合のいい考えも浮かんでくる。自分もまだ若い男なので。 だがあまりにもフリックが遅いものだから、つい寝入ってしまったのかもしれない。 「待たせちまったな」 同盟軍の幹部として、シュウの依頼は断り切れるものではない。だがある程度で切り上げて、残りは明日に回すなど、もう少しうまい立ち回りがあったのではと反省する。 悪いことをした、とフリックは思った。 「ティル、……起きないのか」 一応声を掛けてから、薄い肩に触れる。軽く揺すぶってみたが、穏やかな寝息は変わらなかった。 このままの姿勢で寝かせておく訳にはいかない。無理に起こすのも可哀想だ。 かといって、棟の違うティルの部屋まで連れて行くのは難しい。 いや、抱えて運ぶこと自体は簡単なのだが、そこそこ距離があるので人目についてしまう。フリックはともかく、子どものように抱きかかえられていた≠ネどと噂されるのは、ティルにとっては不本意だろう。 となれば、この部屋のベッドに寝かせるしかないのである。多少狭いが、そこは我慢してもらおう。 腹をくくって、フリックは手早く寝間着に着替えた。幸い、シュウにとっ捕まる前に風呂に入っていたから、このまま寝ても支障はない。 ティルも風呂上がりの部屋着姿だ。夜が冷えるからか、重ねて羽織った上着だけ脱がせてしまえばいい。 簡単に寝る支度を終えて、今度はティルの体に手をかけた。 突っ伏した体を起こしてから、抱え上げる。軽々と持ち上がったのは、フリックが鍛えているから、だけではない。 かくり、と白い喉元が晒される。細い首だ。喉仏もまださほど目立たない。大人になりきらない、少年の体躯。 この先ずっと変わらない、変われない、いとけない寝顔だった。 「……ティル」 甘い匂いさえしそうな体に、一度だけ顔を埋める。ほんの、一瞬だけだ。それ以上は、止まれなくなるから。 深呼吸して気を落ち着けてから、ベッドの壁際にそっと降ろした。後でフリックも潜り込むつもりだが、先に掛け布団を掛けてやる。 ランプの明かりを吹き消せば、宵闇が静かに部屋に満ちた。 月明かりがしんしんと、カーテンの隙間から降り積もる。 慣れた距離を数歩で移動して、フリックはベッドに潜り込んだ。まだシーツは冷たいが、温かな温もりを抱き寄せれば、ほうっと胸から吐息が漏れる。 「う……ん」 眠りが浅くなったのか、ティルがもぞもぞと体を動かした。フリックの胸元に潜り込むように身を寄せると、ややあって体から力が抜ける。 そしてまた、穏やかな寝息を立て始めた。 少しだけ、身を起こす。夜目が利くフリックには、月光の残滓で十分だった。 安らいだ寝顔を見下ろせば、甘さよりも切なさが苦く胸に広がる。 グレミオにパーン、テオ、テッドにマッシュ。そしてたぶん、オデッサ。 大切な人を次々と亡くしてから、笑っていてもどこか影のかかる少年が、安寧の中にいてくれるなら。────できれば、この腕の中にいるときだけでも。 出会いは決していいものではなかったし、かつての己の態度も褒められたものではなかった。 だが、リーダーとして認めてからは尊敬していた。彼の支えになりたくて、守ってやりたかった。 その気持ちが恋情に変わっていたことを自覚したのは、再会後しばらくしてからだった。手が届かなくなる前に気づけて、よかったと思う。 性別、年齢。ただでさえ障害があるのに、重すぎる紋章すら背負っている。フリックの気持ちを受け入れてくれはしたものの、色々考えていることも知っている。 だとしても、「好きだ」と言ってくれたことがすべてだ。 できることならなんでもしてやりたいし、その覚悟もある。自分が重い性質であることはわかっているから、まだ口にはしないけれど。 「ティル。……おまえを手放すつもりはないんだ」 最初に愛した人は、己の力不足で失ってしまった。守れなかった。その意思を、正しく継ぐことすらできていなかった。 だから今度こそ手放しはしない。たとえティルが望まなくても。 背負った運命ごと、最後まで支えるつもりだ。 喪失に怯えるティルには酷かもしれない。自分のエゴで我が儘なのかもしれない。 それでも。 守りたい、と思うのだ。あるいは世界のすべてから。 「……悪いな」 ティルはフリックを真っ直ぐなだけの男と思っているかもしれないが、これでも一応、戦士として傭兵として流れてきたのだ。紋章に運命を狂わされたといっても、ティルとは元々生きてきた場所が違う。 こんな男に執着されて、捕まって。もっといい相手もいただろうにと、憐れむ気持ちはある。だが受け入れたのもティルなのだから。 諦めてくれ、と。 祈るような気持ちで、フリックは愛おしい温度を抱き締めた。 夢は、見なかった。 [#] 幻水108題 075. 闇 || text.htm || |